#032 オンライン×運動
おはようございます。内田です。
私は、名古屋に住んでいますが、
例えば、九州の方に会おうとしたら、
少なくても3時間半以上はかかる
ところが、インターネットを使えば、
「顔がみたいなあ〜」なんて思ってから、
スマホを取り出し、3分半足らずで繋がれる。
これは、
ZOOMなどのビデオ通話を何度使っても、
ふと、そんなことを思い出し、
すごいことだなあと考えます。
鉄道が生まれ、自動車が普及し、
飛行機に乗れるようになり、
その気になれば、どこへでも行けるようになっても。
電話が繋がり、メールが届き、
今のようにスマホが
どこでもドア
のような力を持つようになっても、
それでもなお、
”袖触れ合うも多生の縁”
であることは変わらないと思います。
縁無き出会いはなく、
出会いは、心の波長の感応で、
また天にいた頃からの約束なんだろう。
なんてことを思うと、
パソコンやスマホの画面を覗いて、
スピーカーやイヤホンから聞こえる
機械を通した声のやりとりであっても、
その主人公は、人間なのだから、
それは
袖が触れ合うよりは、深い縁
のような気がします。
この一点で考えてみても、
気軽に接続できるからこそ、
「縁」
を意識すること。
また、
「縁」といえば、
徳川将軍家に兵法を教えていた、
柳生宗矩(やぎゅうむねのり)さんの言葉が印象的です。
小才は縁に逢って縁に気づかず、
中才は縁に逢って縁を活かさず、
大才は袖触れ合う多生の縁もこれを活かす
これは僕の解釈では、
- 縁があることすら気が付くことができない人、
- 気が付いても行動できない人
- 小さな縁からも、深いご縁を受け取って行動できる人、
がいるよね。ということで、
これは生長の家総裁、谷口雅宣先生の説かれる
「凡庸」という生き方
に通じるものを感じました。
谷口雅宣著『凡庸の唄』の6頁を引用します。
新幹線に乗っていては駅の名前さえ分からない。
黄金色の稔りの秋は単一の黄色の帯だ。
普通列車に乗ってみると、駅名だけなく看板の古さ、新しさがよく分かる。
名産品の広告が読める。駅員の声が聞こえ、
ああ 父と同じ年頃だと分かる。
垂れた稲穂を持ち上げれば、
ああこのおかげで自分は今日まで生きてきたと天と地と人との仕合わせに納得する。
そう、幸せとは人・物・事のめぐり合わせに価値を見出すこと。
見出すだけでなく、しっかりと味わうこと、触れること、皆仲間じゃないかと慈しむこと。
せっかく旅に出ているのに、出立地と目的地しか味わえないのでは、本当に生きているとは言えない。
凡庸は、そのことを知っている。
小才・中才・大才
なんてことを言われると、
歴史に名を残すような人のことを
“大才”と呼ぶんじゃないかと、
自分とは程遠いものだと思いがちです。
でも実は”大才”とは”凡庸”のことで
つまりそれは、
“幸せの天才”なんだろうと思います。
僕はマンガを読むのが好きですが、
そこにはストーリー(物語)があります。
でももし、
これが冒頭と結末だけで終わってしまったら?
きっと、誰も読まないはずです。
なぜかってそんなのでは、
何にも面白くないからです。
まさに先ほどの引用の一節にあったように、
せっかく旅に出ているのに、出立地と目的地しか味わえないのでは、本当に生きているとは言えない。
のです。
せっかくの物語も、
「はじまり」と「おわり」だけでは、
本当に読んでいるとは言えないのです。
ストーリーの本流と、
それを支えるかのようにちりばめられた、
物語の伏線。
それらが伏線回収されて、
物語の終盤に向かうにつれ、
繋がり合っていく様に、
読者は興奮を覚え、
自分に重ねつつ、心に残る物語だったと感動します。
そんな風に感じてほしいと、
小説家や漫画家は、
日夜作品作りに没頭する場合も
あるわけですが、
そこまで用意された読書でさえも、
読み手である私たちが物語伏線、つまりストーリー
に溢れる「ご縁」に気が付かず、
時間ばかりを気にして、
読み飛ばしていけば、
芥川賞や直木賞の受賞作品だろうと、
今大人気の漫画「鬼滅の刃」であっても、
その秘められた面白さ・喜び
を手にすることはできないはずです。
それでいて私たちの人生物語は、
どんな人であっても、
一流の小説や漫画にも、
勝らずとも劣らない複雑さ、
つまり、沢山のご縁で紡がれています。
引用の一文を再掲しますが、
ああこのおかげで自分は今日まで生きてきたと天と地と人との仕合わせに納得する。
とありました。
ここでは、”幸せ”ではなく、”仕合わせ”と表現しています。
これは”運命”という意味を持ち、
良いことも、一見すると悪と見えることも含んでいます。
そういった仕合わせ。
つまり運命に納得するということは、
目の前の出来事を受入れること。
そして、その後には、”幸せ”という文字が使われています。
そう、幸せとは人・物・事のめぐり合わせに価値を見出すこと。
価値を見出すとは、感謝をするということ。
そして、ただ感謝を見出すことに留まらないようにと、
書かれています。
見出すだけでなく、しっかりと味わうこと、触れること、皆仲間じゃないかと慈しむこと。
こんな生き方を、
本当に生きている、と言い
それを凡庸は知っている。
小才・中才・大才の”大才”とは、
凡庸な人であり、
感謝の人であり、
そのような一面を持つがゆえに、
結果的に歴史に名を残すことにもなり得るのだろうと思いました。
この数ヶ月に及ぶ、
コロナウィルス感染症の影響で、
インターネットでの人間関係が、
何倍にも増しているからこそ。
一見簡単に繋がることのできる
ZOOMやYouTubeなどを、
無機質に感じて、
情報を受け取るだけの媒体であると、
ドライに考える事だけ終えず、
“縁結び”なんだ。と感じて、
っかりと味わい、
触れるようにしていきたい。
オンラインに血を通わせるのは
人の心、愛念であるということを、
忘れずにしていきたいですね。